ガイド:「みなさん、これを読んでみてください。」

引田の人「馬が山で草を食べる。」

東かがわ市白鳥(引田の隣町)の人「馬が山で草を食べる。えーっ、違う!」

高松市の人「馬が山で草を食べる。白鳥の人とは一緒やけど、引田の人とは違う!」

(音声がないので分かってもらえないのが残念です。)

 実は、引田は香川県のなかでもやや方言が異なります。

決定的に違うのがアクセント。

 香川県のほぼ全域で「讃岐式アクセント」が使われているのに対し、引田では唯一「京阪式アクセント」が主流になっています。京阪式アクセントは、関西地方や徳島県に分布するアクセントであり、引田が古くから関西や阿波との深い交流があった地域だったことを物語っています。

 「なんとなく言葉が違う。」と、引田生まれの人はよく香川県内の人から指摘されます。この大きな理由は、アクセントの違いにあるようです。

 

 

 今回の街並み歩きで、引田の街の歴史や文化、生活の奥深さ、面白さを知ることができました。


  あなたも、この街を歩いてみませんか?

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ガイド「このお家の瓦、1か所だけ家紋が違うでしょ。これは、奴を投げたときに瓦が割れて、修繕したためだと言われています。昔、瓦は高級品で、なかなか新しいものが手に入らなかった。そこで、使われなくなった他所の家の瓦を再利用したんですね。とはいえ、これも江戸か明治時代の瓦ですよ。」

 見逃してしまいそうですが、よく見ると、本当に深い歴史と文化が街には刻まれています。

 

 方言

誉田八幡宮(八幡さん)横の住宅街にある灯篭。自然石を用いた、いかにも古そうな灯篭。しかし、なぜこんなところに灯篭が?

 ガイドさん「実は、これとよく似た灯篭が引田には3つあります。江戸時代に建てられたものです。どれも、かつて引田にあった塩田と街の境目に建ってるんです。このことから、これらの灯篭は、夜間の暗がりに塩田と街との境界を示す目印として使われていたと考えられます。また、塩田の繁栄を金毘羅さんに祈願する、信仰のための灯篭だったとも言われています。」

引田の街の南部、旧旅館街のたもとにある道しるべ。

 大坂越え、一本松越えと書かれています。

 この2つの峠は、讃岐と阿波を結ぶ国境の峠。

 川の向こうに見える阿讃山脈を越えていく道です。

 

かつて、これらの峠は、引田で採れた瀬戸内の魚を徳島県へ運ぶ「行商の道」でした。

 朝採れた新鮮な魚を、天秤棒を担ぎ、毎日山を越えて運んでいたのです。

 冷蔵技術のない昭和初期まで、内陸部の人々は海で採れた生魚を食べることはできませんでした。

 しかし、徳島県の阿讃山脈寄りの地域では、引田の魚が毎日峠を越えて送られてくるため、新鮮な魚を食べることができました。徳島の郷土料理「ぼうぜの姿寿司」も、引田産のぼうぜを使うところが現在でも多くみられます。

 現在でも、峠のふもとの街道沿いのまち(板野町など)には、魚屋さんが残っており、峠を挟んで行なわれていた、徳島と引田の交流の歴史を物語っています。

 また、国境の峠は、阿波から讃岐へ嫁ぐ際に通る、「花嫁の道」でもありました。

 「讃岐男に阿波女」ということわざがありますが、引田はまさにその典型。

 徳島から嫁いだ女性が、今でも多く住んでいます。

 引田の道しるべの多くには、「こんぴらさん」への道筋が案内されています。

  香川県に残る道しるべには、こんぴらさんを案内するものが多いのが特徴ですが、東

の端の引田でもそうなんですね。

 引田は関西からの定期船もあり、江戸時代から明治時代にかけては、引田で船を下り、歩いて金毘羅参りに向かう人も多かったそうです。

 讃岐の東玄関として賑わっていたことがよく分かります。

 また、この道しるべ、「城山ほんみち」と書かれてあります。(ちょっと面白い字の排列ですね。)大正時代(約90年前)、香川県や引田町は、城山(引田城跡)に遊歩道を整備し、観光地としてPRしようとしていました。その一環として建設された道しるべなのです。当時の人たちの歩みがよく分かるモニュメントです。

 

引田には、明治時代末期まで、街の北部の安戸(あど)地区に塩田が広がっていました。この塩田は、約400年前、豊臣秀吉により讃岐一国を与えられた生駒親正が、元領地の播磨国(兵庫県)赤穂から連れてきた製塩技術者に造らせたもの。(彼らの子孫は今でも引田に多く住んでいます。)讃岐で最も初期に造られた、入浜式(江戸時代から昭和初期まで主流だった製塩法)塩田であると考えられています。引田の塩は、その後引田で盛んになった醤油醸造の原料となり、街の発展を支えました。

 

香川県は、江戸時代後半から昭和40年代まで、日本一の塩の産地として有名であり、一時は全国シェア4割近くを占めていました。塩は、うどんの原料として必要不可欠なものですね。讃岐うどんは、香川県が塩の産地であったことと関係があるのです。

この祭りの醍醐味の一つは、「投げ奴(やっこ)」。

 人の背丈の3倍はある奴を、投げ合いながら練り歩きます。

 この「投げ奴」は、全国的に非常に珍しいもの。このあたりでは、鳴門市北灘町の葛城神社(引田から車で15分程)と、八幡さんくらいでしか見かけない祭りです。

 なんといっても迫力があるのは、道幅の狭いマチスジで高い奴を投げ合うこと。スリル満点、投げる側も見る側も、緊張感をもって臨みます。

(写真:一本松越えの道しるべ)

(写真:八幡さん鳥居前の道しるべ)

久米通賢(東かがわ市歴史資料館蔵
坂出塩田の写真

謎の灯篭

~街の至る所に、江戸から昭和の遺産が残る~

~引田街並み歩き

ガイド「このお家の瓦、実は江戸時代のものです。引田にあった神崎(かんざき)家の屋敷の瓦を再利用しています。」

 

引田は、古代から南海道の通過する交通の要衝。街には徳島と高松を結ぶ阿波街道が通り、また、讃岐山脈を越えて徳島県へ向かう峠がいくつもありました。

 引田の港からは、関西へ向かう船便も多く、街は陸上交通と海上交通の結節点として、多くの旅人で行き交っていました。江戸時代の古文書には、「引田は讃岐東第一の大湊」と書かれ、讃岐の東玄関として賑わっていたのです。

 街のあちこちには、江戸~昭和の道路標識「道しるべ」が残っており、道しるべにまつわる様々な物語が出てきます。

街に残る道しるべ

実は、引田は香川県を日本一の塩の産地へ押し上げた立役者の出身地。江戸時代後期、引田の相生地区出身の武士・久米通賢(つうけん)が、当時小さな漁村だった坂出(さかいで。現在の坂出市。瀬戸大橋の通るまち。)に全国一の大塩田を建設したのがきっかけです。久米通賢は「日本のエジソン」と讃えられる発明家でもあり、香川県の発展に大きな足跡を残しました。現在でも、坂出では「まちの繁栄の基礎を築いた恩人」として讃えられ、通賢の名前をとった「久米町」や、大きな銅像も建てられています。また、毎年、通賢を讃える祭り「さかいで塩まつり」が盛大に開催されています。

 街のなかにある謎の灯篭から、引田と塩にまつわる様々なストーリーが出てくるのですね。

 引田の塩田は、明治末期に廃止され、その跡地は井筒屋(現在の讃州井筒屋敷)が中心となって耕地整理され、水田に変わりました。しかし、生駒氏により築造されて約300年間、引田の産業を支えた功績は大きく、現在でも塩釜神社や、製塩業者の屋敷など、塩田のあった時代を物語るものが、まちには残っています。

街を歩いていると、あちこちに、江戸時代~昭和にかけての建物、石造物やモニュメントを見かけます。ガイドさんの説明がなければ見逃してしまうくらい、自然に、街の中に溶け込んでいるのが不思議です。

撮影者   小室 智史

引田で400年前から続く、八幡さんの秋祭り。

 マチスジ約1.5kmを、行列を成して練り歩く、引田の伝統行事です。

 大名行列を模した祭りと言われており、城下町であった時代を今に伝えています。

~これって引田だけ?隣町とも違う独自の文化~

誉田八幡宮(八幡さん)の投げ奴

ガイド「今はカフェになっている旧引田郵便局。昭和7年に造られた建物で、実は私と同い年です(笑)。木筋(もっきん)コンクリート造り。鉄筋ではなくてね。しっかりした建物ですよ。」

 

街並みのなかに、様々な時代に建てられた建物が自然に共存しているのですね。